矢作直樹が語る 天皇陛下とマッカーサーとの会談①

矢作直樹が語るシリーズ、第7回目です。

本日は、天皇陛下とマッカーサーとの会見から話を始めさせていただきます。

前回も述べました通り、昭和天皇とマッカーサーとの約束で、天皇陛下ご自身はその内容について一切公表されることはありませんでした。

一方マッカーサーは会見の後、今後の事を考えて大いに心を痛めました。

なぜならば、昭和天皇が仰ったこと、つまり、すべての事は私の名のもとになされたのだから、私が全責任を取る。

だから、東郷や東条や重光らを罰せずに私を罰っせよ、と仰ったからです。

このことは当時通訳を務めた、フォービアン・バワーズ少佐、この方は戦後混乱期に歌舞伎の存続に大きな貢献をしたことで名を残しました。

このバワーズ少佐が後日明かしています。

憲法上、ご自身に期さないはずの責任をすべての日本国民になりかわってとられようとした昭和天皇に、マッカーサーは大きく心を揺さぶられたのです。

また、日本側の通訳として天皇陛下のお供をした奥村勝次外務次官は、後に会見の様子を次のように述べています。

陛下はマッカーサーの机の前まで進まれ、挨拶のあとに次の二つの事を述べられました。

今回の責任は全く自分にあるのであるから、自分に対してどのような処置をとられても異存はない。

次に、戦争の結果、現在国民が飢餓に瀕している。

このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出る恐れがあるから、米国にぜひ食料援助をお願いしたい。

ここに皇室財産の有価証券をまとめて持参したので、その費用の一部にあててほしい。

というふうに陛下は述べられました。

そして大きな風呂敷包みを元帥の机の上に差し出されました。

したところ、それまで姿勢を変えなかった元帥がやおら立ち上がって、陛下の前に進み、抱きつかんばかりにしてそのお手を握られ、

私は初めて神のごときの帝王を見た、と述べて、陛下のお帰りの時には元帥自ら出口までおをされたとのことでした。

その後、天皇陛下はしばしばマッカーサーのもとを訪れ、世界の様々なことについて話あわれました。

そしてまたマッカーサーは、天皇は私が話し合ったどの日本人よりも民主的な考えをしっかり身につけられていた、と述べています。

次、マッカーサによる新憲法成立への指導。

マッカーサーはポツダム宣言第12条に反して、10/4から東久迩内閣の近衛文麿国務大臣に指示をして憲法改正、治安維持法廃止、政治犯釈放、思想警察廃止などをさせました。

これに反発して翌日総辞職した東久迩内閣の後をうけた秀原喜重郎内閣にも憲法改正を指示しました。

そして25日、松本譲二国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を設置して憲法改正の準備を進めました。

翌昭和21年1月松本委員長は憲法改正新案をさらに手を加えて、小改正の憲法改正要項(これを甲案します)と大改正の憲法改正案(乙案)として、2月8日に甲案のほうをGHQに出しました。

このころ民間でも様々な憲法改正案が出されていたことは、皆さんはご承知かもしれません。

そして、GHQはこの民間の憲法改正案のうち、昭和20年12月26日に発表された共産主義者鈴木安蔵らの憲法研究会の憲法草案要項の国民主権の考え方などを評価しつつ、自分たちでも憲法改正の準備を行いました。

なおこの鈴木安蔵は、マルクス主義的立場から大日本帝国憲法をはじめとする憲法史政治史を研究し、大日本帝国憲法の成立過程の実証研究に先駆けとなった学者として有名です。

なお、松本甲案がGHQに提出される直前の2月1日に、松本乙案に近い草案が毎日新聞によりスクープされました。

GHQの憲法問題調査委員会の責任者であるコートニー・ホイットニー民政局長は、この案を分析して松本乙案を判断し、大日本帝国憲法から大きく変わらない保守的な案であると断定しました。

そこで前年12月26日に連合国による日本管理のために設置が発表された最高政策決定機関である極東委員会。

これは日本に対して非常に厳しい姿勢を示していたソ連やオーストラリアを含む11か国の委員からなっておりました。

この極東委員会が発足する2月26日より前に、憲法をなんとか成立させようとしたのです。

その理由は、もしこの極東委員会が発足してしまうとですね、天皇制の廃止を要求される恐れがあって、それまで自分たちで、まぁ天皇陛下に残っていただきたいと考えていたマッカーサーとしては困るわけですね。

ということで、憲法成立を急ぎました。

で、マッカーサーはですね、2月3日のですね、憲法草案の基本思想となる三原則、いわゆるマッカーサーノートをですね、民政局に示しました。

このマッカーサーノートの概要は、これはまぁ、レターサイズの紙一枚のものなんですけれども、三つの原則について述べます。

一番目が象徴天皇

天皇は国家元首の地位にある。

皇位は世襲され、天皇の職務及び権能は憲法に基づき行使される。

憲法に表明された国民の基本思想の応えるということですね。

二番目、戦争放棄

国権の発動たる戦争は廃止する。

日本は紛争解決の手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。

日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。

日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。

三、封建制度の排除

日本の封建制度は廃止される。

貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代を超えて及ばない。

華族の特権は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものでもない。

予算の形は、英国制度に倣うこと。

この三つを、マッカーサーノートとして、民生局に示しました。

これを受けて民生局は英国・米国の憲法とポツダム宣言やスインク、前回申しました国務省陸軍省海隅省調整委員会のことですね。

スインク288文書を参照しながら、2月8日から10日までの作業で草案を完成させ、マッカーサーによる手直しののち、2月13日にマッカーサー原案として松本甲案に対する回答という形で日本政府に施行されました。

この原案には、マッカーサー三原則を受けた三大原理、つまり国民主権・基本的人権・平和主義が盛り込まれました。

なおこのときに、ホイットニー民政局長は、最高司令官はこの新しい憲法の諸規定が受け入れられるならば、実際問題として天皇は安泰になると考えておられると圧力をかけてきました。

マッカーサーの意志は固く、日本政府の反論は一切許されず、22日政府はこれを受諾しました。

その後、原案をもとにして、日本政府が巻き返しを図って、政府案を3月4日にGHQに提出しましたが、GHQの仕返しは非常に厳しく、翌日までにほぼ元の原案通りのものが戻されてきました。

それが翌日の、憲法改正草案要綱として公開され、マッカーサーもこれを了承しました。

そして4月16日には降下(?)された憲法改正草案が政府案として承認され、その後、GHQと極東委員会の厳正な統制のもと、枢密院、衆議院、参議院の可決を経て、修正帝国憲法改定案として10月29日に枢密院で可決。

同日に天皇陛下のご裁可をいただいたのちに明治天皇の誕生日の11月3日、日本国憲法として交付されました。

この法的手続きとしましては、大日本帝国憲法第73条に基づき、天皇のご提案により修正したことになっています。

なお余談ですが、戦前の四大節は以下の通りです。

  • 正月元旦の四方拝
  • 2月11日の紀元節、これは神武天皇の御即位ですね
  • 4月29日の天長節、昭和天皇のお誕生日
  • 11月3日の明治節、明治天皇のお誕生日ですね

当時の吉田茂は、国民への浸透度を高めるために、この新憲法公布をこの四大節のどれかにあてはめたかったそうです。

当時、天皇陛下という存在への国民への意識がまだまだ高かったことがうかがえます。

@AJER2016.11.9

編集後記

(?)部分は、何度聴いても“コウカ”と聞こえるのですが、“降下”であっているのでしょうか😥

間違いであれば、ご指摘お願いします。