矢作直樹が語る 国際政治では歴史は政治手段である②

2019年8月7日

矢作直樹が語るシリーズ、第6回目です。★★★

では、言論統制についてさらに述べてまいります。

米国統合参謀本部の命令、昭和19年11月12日付けですが、この命令でですね6年7か月にわたる

日本新聞準則ーこれはプレスコードと呼ばれます、

あるいは日本放送準則ーラジオコードと呼ばれました、

あるいは、新聞と言論の自由に関する新措置を発令し、

民間検閲支帯CCDを使って、徹底的な言論統制を実施し、連合国に不利不都合な記事を一切封印しました。

一例をあげると、GHQから配布されたと思われる昭和20年9月27日の天皇陛下とマッカーサーとの会見記念写真、有名ですね。

これが、各新聞紙に掲載されましたが、それはモーニングをまとった正装で直立不動の天皇陛下と、軍服のまま腰に手を当ててリラックスしたマッカーサーとが並んで写ったものでした。

さすがにこれは不敬と考えた内務省は、現行法に乗っ取りこれを差し押さえました。

ところが、9月29日、言論機関がいかなる政策ないし意見を表明しようとも、新聞その発行者または新聞社員に対して日本国政府は決して懲罰的措置を講じてはならないとする、新聞と言論の自由に関する新措置が指令され、内務省の措置がGHQにより覆されました。

この写真を見た多くの日本人は、私の両親を含めて、強く敗戦を意識しました。

この新措置の準則により、連合国に不都合な記事はすべて封じ込められ、新聞と言論の自由に関する新措置によって国家に対する忠誠義務から解放された日本の言論機関には、連合国の政策ないしは意見を表明する機関とならざるを得なかったのかもしれません。

さらに、民間検閲支帯内に新聞・映画・放送が新設されました。

要因の事情が許す限り、主要新聞は事前検閲、またそれ以外の新聞もすべて事後検閲の対象となりました。

また、あらゆる形態の印刷物、通信社、ラジオ放送、映画宣伝媒体に属する他の娯楽もすべて検閲を受けることになりました。

検閲により削除が命じられた箇所は、すべて塗りつぶす、余白として残す、〇〇、などといったような方式をとってはならないとされ、すべて出版物に関しては活字組から組みなおされました。

検閲の秘匿を徹底させるためですね。

さてその内訳ですが、この削除または掲載発行禁止の対象となるものとして、30項目からなる検閲指針がまとめられました。

その内訳はですね、ちょっと長くなりますけれども大事なので述べさせていただきます。

検閲指針
  1. 連合国最高司令官司令部(SCAP)に対する批判
  2. 極東軍事裁判批判
  3. SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判
  4. 検閲制度への言及
  5. 合衆国に対する批判
  6. ロシアに対する批判
  7. 英国に対する批判
  8. 朝鮮人に対する批判
  9. 中国に対する批判
  10. 他の連合国に対する批判
  11. 連合国一般に対する批判
  12. 満州における日本人の取り扱いに付いての批判
  13. 連合国の戦前の政策に対する批判
  14. 第三次世界大戦への言及
  15. ソ連対西側諸国の冷戦に関する批判
  16. 戦争の擁護の宣伝
  17. 神国日本の宣伝
  18. 軍国主義の宣伝
  19. ナショナリズムの宣伝
  20. 大東亜共栄圏の宣伝
  21. その他の宣伝
  22. 戦争犯罪人の正当性および擁護
  23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
  24. 闇市の状況
  25. 占領軍軍隊に対する批判
  26. 飢餓の誇張
  27. 暴力と不穏の行動の扇動
  28. 虚偽の報道
  29. SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
  30. 解禁されていない報道の公表

これらをすべて、削除または掲載発行禁止の対象としました。

しかも、このようなことが堂々とですね、なされました。

そして、次に宣伝工作ですけれども、GHQの民間情報教育局は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムー有名ですね。

略してウォージップなんて呼ばれてますけれども。

戦争犯罪宣伝計画、戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝工作、宣伝計画ですね。

このウォージップにより、日本人にですね、

大東亜戦争は人類に対する犯罪行為であったという贖罪意識を植え付け、

日本人の教示と自尊心を奪い、

日本古来の精神文化を葬って、

日本が再び米国ならびに連合国の脅威とならないように無力化・弱体化し、

米国に従うことを狙って様々な宣伝工作をしました。

昭和20年12月8日の真珠湾攻撃からー???と同じ日ですね、

昭和20年12月8日からGHQのCIEにより太平洋戦争史の連載が各新聞でなされました。

そして、その翌日にはラジオ番組「真相はこうだ」が開始されました。

その中で、日本のいわゆる軍国主義ですね、の極悪非道さや日本軍の残虐性を煽りたてました。

この意図として、軍国主義と国民との架空の対立関係を導入し、

悪い軍国主義が善良な国民を戦争に駆り立てたとすることで、

今次大戦での日米両国の全責任を、軍国主義者とそれを成り立たせた旧秩序(?)においかぶせようとしたものです。

さらに、この太平洋戦争史連載開始一週間後には、大東亜戦争の用語を公文書で用いることが禁止されました。

また、日本人の立場による大東亜戦争史観を封印し、連合国の立場による太平洋戦争史観が植え付けらていきました。

さらに、昭和20年12月31日には、CIEが修身・国史・地理の授業の即時中止を命令しました。

昭和21年4月、文部省は、太平洋戦争史を国史と地理を停止中の教材として使用するよう通達し、太平洋戦争史観が教育現場に浸透していくこととなりました。

ここで天皇陛下の処遇ですが、終戦直後、昭和天皇は臣下が戦争犯罪人として裁かれることを大変憂慮され、木戸幸一内大臣に

「自分一人が引き受けて、退位でもして収めるわけにはいかないだろうか」

と仰せになりました。

昭和天皇について周到に予備調査し、終戦直後の9月27日には昭和天皇と会見したマッカーサーですね。

日本統治のためには天皇陛下の存在は不可欠と確信し、合衆国政府に対して天皇の戦争責任は一切ないと通知しました。

それまで、ソ連と英国は天皇を戦争犯罪人として処罰することを強く要求していました。

実際、米国政府も英国の意見に傾きかけていたのですが、このマッカーサーの報告により天皇を戦争犯罪人に含めることを諦めました。

古来、祭りごとと政(まつりごと)、祭りと政治の政ですね、のマツリゴトとは一体。

つまり政祭一致が言われていました。

明治の大日本帝国憲法下でも、天皇が統治権を総攬(そうらん)する。

すなわち、統治大権は天皇にありました。

ただし、天皇は実際の政治、まつりごとに携わられたわけではありません。

逆に言えば、政治に携われなかったからこそ、こんなに長く万世一系を維持できたともとれます。

したがって国体と政体という二つには、明確な区別が必要です。

明治以後の政体は立憲君主制で、君主としての天皇は憲法を尊重し、ご自身も憲法に規定されりご存在でした。

天皇の統治大権は国務大臣の輔弼(ほひつ)を要し、かつその責任は輔弼(ほひつ)する大臣がおいました。

つまり、帝国憲法上、今次大戦を含めて政治に関して、昭和天皇には法的責任はありません。

戦前、昭和天皇は輔弼(ほひつ)する内閣の上奏した事項には、たとえそれがご自身のご本意と異なっても最終的には裁可なされました。

実際、対米戦開戦にあたっても再三、間接的に戦争回避のご意向をお伝えになりましたが、それでも政府は開戦を上奏したため、最終的には天皇陛下はそれを裁可されて開戦となったわけであります。

まさに、昭和史の前半は、おそれながら平和を危急あそばす昭和天皇が大御心を謹んで承る軍部の暴走をどのように沈め、正道を進ませるかのご苦労ご苦心の歴史であったという状況だったわけです。

今上陛下も

和の時代は非常に厳しい状況のもとで始まりました。

昭和3年、昭和天皇の即位の礼が行われる前から起こったのが、張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)でした。

3年後には満州事変がおこり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。

第一次世界大戦のヴェルダンの古戦場を訪れ、戦場の悲惨な光景に接して、平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。

天皇陛下御即位20年に際してのお言葉です。

@AJER2016.10.26

編集後記

やはり、聴き取れない部分が出てきます😥

戦争の話はテレビのドキュメンタリーで見るくらいでしたが、それも真実ではない可能性大ですか・・・

日本人として、自分自身が日本についてもっと知らなきゃという、焦りのような思いが湧いてきます。

私のような中高年が知らないのだから、今の子供たちは言うまでもないですね。

昭和40年代、共産主義運動の高まりに対し、日本精神の復興を訴えた人がいます。

この方は、昭和14年9月から「大日本精神」と題する不戦必勝の建白書を、昭和20年の敗戦間際まで、日本の指導層に送り続けていました。

日本精神復興促進会総裁の大塚寛一さんです。

機会があれば、別記事で書籍をご紹介しようと思います。